デパートのジュースと嗜む程度の幸せ

「留学すると、日本語が恋しくなるよ」
と、留学を決めてから何度脅されたことか。

もちろんホームシックになったりしたものの、日本語自体が恋しいかと言うと、そうでもない。
YoutubeやLINEで大抵の寂しさを埋めれるようになった恩恵を受けているのだなぁと常々思う。


あとは、元々ラジオが好きだから、日本にいる時と同じペースでラジオを聞いているからだろうか。
YoutubePodcastの芸能人の公式チャンネルがローカルラジオ番組を配信する流れが出来ているのはとても嬉しい。

ちょっと前はよゐこさん、
最近で言うと、同郷のサンドウィッチマンさんのラジオが、所属事務所のYoutubeで配信が始まったので毎週聞いている。



サンドウィッチマンさんのラジオの中で、仙台の百貨店「藤崎」の名前が出た。
たまにおばあちゃんの買い物に付き合うと、藤崎の地下のお店で、ジュースを飲ませてもらっていたことを思い出す。


「百貨店の地下・デパ地下のジュース」
子供の頃の、ちょっとした大きな幸せな例としてよく聞いたイメージがあるのだけど、今はどうなのだろう?

多分、僕の両親の世代くらいまでは、その例えが通じると思うのだけれど、僕らの世代でも通じるのだろうか?



そんなこと考えていたら、
僕の感じたあの幸福感と、両親が感じた幸福感ってやっぱり違うのかな?とも思えてきた。

バブル以降に生れた僕らの物質的幸福感は、多分前の世代とは違うし、
前の世代とまたその前の世代との間にも差があるんだろう。

物を持つ幸福、欲しいものを手に入れる幸福、美味しいものを食べる幸福、
基本的に煩悩と呼ばれるものなのだろうなぁと思う。



最近読んでいる本に、
「足るを知る」という言葉が載っていた。

質素な生活だけをするのも違う。
贅沢な生活だけをするのもまた違う。

贅の存在を知りつつ、普段の生活は贅の方向に傾かないように生きる。
そんなバランスだろうか。


濃いものに浸かっていると、どこかで不具合が出てくるものかもしれない。
塩分、油、味、快楽、演奏のスリルと快感もそうかもしれない。


嗜む程度に、やっぱりその一言なのだろうかねぇ。
毎日食べても飽きない、素敵な味付け。

まずい歯磨き粉

ドイツに渡った当初は、使い慣れた日本の歯磨き粉と歯ブラシを使っていた。

だけれども、どちらもストックが無くなってからはドイツのものを使っている。
当たり前だと言えば、当たり前なんだけど。

ドイツで歯磨き粉を選ぶ基準は2つ。
洗面台に残るのが嫌なので、色がついていないやつ。
そして、安いやつ。


そんな基準で選ぶと、大抵独特な味がする。
端的に言うと不味い。


いつだったか、子供用の、メロンとかイチゴみたいな味のついた歯磨き粉から、父や母と同じものを使うようになったときに感じたであろうあの感覚とは、ちょっと違う。

舌がスースーするのではなく、ちょっとピリピリするのだ。


これは何なのだろう。
まぁ、安いから使うけどさ。

小さくなった胃、しかし痩せない体

ドイツに帰って来て1週間、食がちょっと細くなった気がする。
いたって健康的に。


ハンブルクでは家具付きの部屋、ドレスデンの前の部屋も家具付き状態だったので、
今の部屋に家具は少ない。

したがって、フライパンや鍋、包丁すらない。
欲しいとも思わないのが、ちょっと謎だ。


サラダ、ドレッシング、ハムやサラミ、パンにぬる何か、リンゴ、ドライフルーツを入れたヨーグルト、たまに牛乳。
こんなところで毎食済んでいる。

カロリーは足りている。けど胃袋が小さくなった気がする。


自己隔離生活が終わったら、
鍋は買って、ゆで卵だけでもしようかな、タンパク質がちょっと足りない気もする。


週末はマザーをやろうと思う、久々に。
楽器の吹けない時間を過ごす術、意外と忘れてるかも。

諸行無常、みたいなこと

2018年4月、僕はドイツに住み始めた。
1日だったか2日だったからは忘れたけど、本当に切りのいい感じで異国での生活は始まった。


一浪して大学に入り、19年過ごした地元を離れ、本当に上手くいかない4年間。
けれども、先生、先輩友人、バイト先方々、人のあたたかさを知った東京での4年間だった。

最後にほんの少しだけ、前とは違う手応えを感じれた僕は、その頼りない手応えを小脇に抱え、成田から飛んだ。


そこから、2年と少し経った。


地元を離れるとき、日本を離れるとき、この前ハンブルクを離れたときも、電車や飛行機の外に流れる景色をみていつも自分に言い聞かせる言葉がある。


「この感情には、とりあえず蓋をしよう。」


仏教の本を読むと、ちょっと近い事が書いてあってびっくりした。


色んな人のあたたかさを、いっぱいもらえてきたからこそ、僕は異国でも「外国人として」、精一杯生きていける。

悩むと考えると

ふと時間があると、何かを考えている。
何かに対する疑問を、分解するように考えているときはまだ楽だったりする。
考えることに没頭できるから。

だけど、将来のこととか、女の子の事とか、そういう考えても答えがない方に迷い込んでしまうと、不安が襲って来る。
多分「悩む」ってやつだ。


これについては、もはや結論は1つだ。
「悩むことをやめて、今必要なことを全力でやる」
分かっていても、必要なことに手を付けられる環境にいないと中々抜けられない。
飛行機の中とかね。



自信がない自分と、変に自信がある自分。
何かに悩んでいる自分と、気づいたら傲慢で利己的な自分。

そんな感じに色んな自分、ときには相反するような自分がコロコロ出てくるときもある。


血糖値が高いと、ちょっとだけ自信が出てきて、気づくと利己的で傲慢な感じ。
低いと、不安で悩んで、って感じになるのはここ数年で気づいた。
だからって悩みは止まらない。


楽器を替えて6年くらい、必要だと思うことに没頭して来たが全然上手くならないじゃないか。
何かに気づいたからってすぐに状況が好転することってあんまり無かったよね。


暗くなった機内、擬似夜間でも悩む自分よ、
単純だな、お前。

一応、沈まぬ太陽

先日、地味な白夜を体験した。

ヘルシンキ到着が23:00くらい、そこから翌朝7:45の飛行機を待つ。

ホテルは高いし、手続きを含めると一泊するには中途半端な待ち時間だったので、
空港でそのまま待つことを選択。


EUに入る手続きを済ませてふと外を見ると、キレイな夕焼け。
もしやと思って調べたら、ヘルシンキも白夜になる範囲だそう。
日付またいでしばらく見てたけど、太陽が完全に没み切るギリギリのところで保って、戻ってくる感じだった。

本当のところはどうか分からないけど、一応、プチ白夜ってことで。

自分の中の錯覚と歪み、そしてそれに対抗する

大好きなお笑い芸人さんのラジオ絡みで、最近またあるアーティストさんが好きになっている。

元々好きだけど、最近ご無沙汰だった。


芸人さんがラジオでカバー曲の話をしたところ、
ボーカルの方がTwitterにそのカバー曲をアコギで弾き歌いしたものを上げていた。


やっぱり人の声も歌い方も素敵だなぁ、と思う反面、それは本当に彼女の歌に対する純粋な感情なのか、自分に問い詰めたくなった。

そのボーカルの方は、美人だし、身に着けるもののセンスも素敵だと思う。

そんな「歌以外の部分」が、その人に対する評価を歪めているのではないか、
と、怖くなった。


そんなこと、人と人との関係性1個につき何個もあるだろうし、
もはや街中に溢れている、みたいなレベルではないほど氾濫しているんだろうけど。



だけど、ちょっと苦手だ。



そういうものとは距離を取ろうと思っているものの、今回みたいに自分にもいっぱい当てはまる事例があると思う。

そこで、少しずつ対処法を考えている。

冒頭に出てきた、大好きな芸人さん。
彼は、自分に向けられる称賛に対して「それは本当か?」と、一度距離を取っている感じがする。

凄く周りからの評判が良かったらしいネタ、
僕も本当に面白いなぁ、と思った漫才のネタを、
「よく考えたら、いつもと違う手法にしたから物珍しさが面白いに変わってる部分があるわ」
みたいな感じで。


今思うと、相方さん含めて、そういう人たちなのかな?


熱狂を作っては熱狂を疑う、その積み重ねは錯覚に勝てるのではないかと、少し勇気が湧いた。