倫理違反
「好きな芸能人だれ?」なんて、何回聞いて、何回聞かれただろうか。
「この女性タレントさん可愛いな」
と思って調べてみると、国民的美少女コンテスト出身、ってのが僕の中であるあるです。
あだっちー、こじるり、最近では高橋ひかるさん。
インスタやらツイッターやらSHOWROOMやら、芸能人の私生活が以前より格段に知りやすくなっている気がする。
本人が望むところ、望まないところの両方で。
20歳半ばの自分が思うんだから、人生の先輩方はもっと感じているのかなぁ。
だからこそ、何か下手を打つとたちまち広まってしまうようになっている気もする。
上手く使えば、見てほしい部分だけ見てもらえるんだろうけど、
もはやSNSは見せたくない部分を晒してしまう機能が強い。
衝動的に発信できる、かなり怖い。
だからこそ、「イメージと違った」みたいな感情も増えているのではないかと思う。
個人的な経験として、
素敵な曲を聞いて歌っている人を調べたら、なーんかピンと来なかったり、
エンタメについて素敵な記事を書くライターさんが、ちょっと極端な政治思想を持っていたり。
がっかりまでいかないけれど、ちょっと落ち込むというか。
そんな気分になることがある。
だけど、それって、その人の一部分しか見ずに、自分が勝手に決めたイメージに振り回されていることなんだなと思った。
素敵な歌手も、ステージに立つ以外の顔があり、
面白い記事を書くライターさんも、一人の有権者だ。
だからこそ、「好き」にも注意しなくてはならない気もしている。
大好きな芸能人が、何か倫理に反することをしたとき、
「好き」と「現実」のギャップは、しばしば歪みを生み出す気がする。
「それは嘘だ!何かの陰謀だ!」と、現実を歪ませる人。
「そんなところも好き!」なんて自分に言い聞かせて、好きを歪ませる人。
「騙された!アイツは極悪人だ!死ね!」と、自分を歪ませる人。
いわゆる「認知の歪み」みたいなものなのだろうか、
整合性を取ろうとするのだろうと思う。
だけど、歪みはもっと大きな歪みしか生まない。
土台が崩れた建物が、長くないときを経て崩壊するように。
多分、芸能人に対してだけではなく、友人や家族にもあるのだろう。
「他者に自分の理想通りあってほしい」
羽のはえた空飛ぶカバ、みたいな無理難題を、僕はしばしば他者に押し付ける。
そんな醜い自分にどうやって対抗しようか。
素敵なところと苦手なところ、複雑に組み合わさって一人の人間なのだ、と考えようか。
素敵なところばかり知っていたり、苦手なところばかり知っていると、
錯覚を生み出してしまう。
捨て犬に優しい乱暴者。
社内で人気のある痴漢常習者。
全部フラットに、イメージの優劣をつけないのって難しいけれど、
無色透明ではなく、それぞれの色の名前を列挙する感じだろうか。
列挙してみてそこから考えよう。
自分の見ている全部は、本当に全部なのだろうかはとても疑わしい…
仲間との「全部」の意味の取り違い 僕にとっては鮭の皮かな