アクシデントのアの発音、英語だとエに近い気がする

ベルリンについた。
そして、早速小さなアクシデント。


中央駅での乗り換え中、アクティブなタイプの物乞いの人に小銭をねだられるも、拒否。
今までの体感的に、そういう人は1回の拒否で対象を変えることが多いんだけれど、珍しく粘り強い系の人だった。


彼「くれよ!」
僕「(黙って首を振る)」のラリーが数回あった後、
発言が突然「コロナウイルス!」に変わり、「コロナウイルスくれよ!ハハッ!」の捨て台詞で去っていく彼。


論理的によく分からなかったので、そこまで深く傷つかなかったけど、
何かこう、モヤモヤしたものを受け取ってしまった感じ。


目的地までの車内、少し考えてみようと思う。

倫理違反

「好きな芸能人だれ?」なんて、何回聞いて、何回聞かれただろうか。

「この女性タレントさん可愛いな」
と思って調べてみると、国民的美少女コンテスト出身、ってのが僕の中であるあるです。

あだっちー、こじるり、最近では高橋ひかるさん。


インスタやらツイッターやらSHOWROOMやら、芸能人の私生活が以前より格段に知りやすくなっている気がする。
本人が望むところ、望まないところの両方で。

20歳半ばの自分が思うんだから、人生の先輩方はもっと感じているのかなぁ。

だからこそ、何か下手を打つとたちまち広まってしまうようになっている気もする。

上手く使えば、見てほしい部分だけ見てもらえるんだろうけど、
もはやSNSは見せたくない部分を晒してしまう機能が強い。
衝動的に発信できる、かなり怖い。



だからこそ、「イメージと違った」みたいな感情も増えているのではないかと思う。

個人的な経験として、
素敵な曲を聞いて歌っている人を調べたら、なーんかピンと来なかったり、
エンタメについて素敵な記事を書くライターさんが、ちょっと極端な政治思想を持っていたり。

がっかりまでいかないけれど、ちょっと落ち込むというか。
そんな気分になることがある。



だけど、それって、その人の一部分しか見ずに、自分が勝手に決めたイメージに振り回されていることなんだなと思った。

素敵な歌手も、ステージに立つ以外の顔があり、
面白い記事を書くライターさんも、一人の有権者だ。




だからこそ、「好き」にも注意しなくてはならない気もしている。

大好きな芸能人が、何か倫理に反することをしたとき、
「好き」と「現実」のギャップは、しばしば歪みを生み出す気がする。



「それは嘘だ!何かの陰謀だ!」と、現実を歪ませる人。

「そんなところも好き!」なんて自分に言い聞かせて、好きを歪ませる人。

「騙された!アイツは極悪人だ!死ね!」と、自分を歪ませる人。



いわゆる「認知の歪み」みたいなものなのだろうか、
整合性を取ろうとするのだろうと思う。

だけど、歪みはもっと大きな歪みしか生まない。
土台が崩れた建物が、長くないときを経て崩壊するように。



多分、芸能人に対してだけではなく、友人や家族にもあるのだろう。

「他者に自分の理想通りあってほしい」

羽のはえた空飛ぶカバ、みたいな無理難題を、僕はしばしば他者に押し付ける。




そんな醜い自分にどうやって対抗しようか。

素敵なところと苦手なところ、複雑に組み合わさって一人の人間なのだ、と考えようか。

素敵なところばかり知っていたり、苦手なところばかり知っていると、
錯覚を生み出してしまう。


捨て犬に優しい乱暴者。
社内で人気のある痴漢常習者。

全部フラットに、イメージの優劣をつけないのって難しいけれど、
無色透明ではなく、それぞれの色の名前を列挙する感じだろうか。
列挙してみてそこから考えよう。
自分の見ている全部は、本当に全部なのだろうかはとても疑わしい…



仲間との「全部」の意味の取り違い 僕にとっては鮭の皮かな

白い羊と黒い羊

留学生とはいえ、普段異国で暮らしているとなると、やはり日本で暮らしているより不便なことは多い。
言語や文化の違いを入り口に、不便は、手を変え品を変えプレッシャーをかけてくる。



平時でもかわすテクニックが必要なので、こんな時期になると大変だ。

飛行機での渡航は、普段と全く違う。
そこそこの遠回りしなくては現地にたどり着けない。
欠航の連絡があるならまだマシだ、当日に確認したいことがあって電話したら、1ヶ月前に欠航が決まっていたが、ゴタゴタで連絡すらなかったようだ。
新幹線に乗る前で本当によかった、運が良かった。
オペレーターさんが丁寧な人だったのも、本当に運が良かった。




そして最大の懸案は、差別だ。

分かりやすいところで、異国での生活中の差別。
特に、この期間現地に留まっていた知り合いからは、やはり街で差別的なことを言われる経験があったと聞いた。
別々の都市から、複数回そんな話が。

皮膚や目の色で、いったいその人の何が分かるというのか。
生まれたところすら分からないだろう。

しかし、「グループの外の人々」には、しばしば敵意が向けられる。



それは日本国内、日本人同士でも簡単に起こる。

留学生バッシング、そこまで大きくはならなかったが、本当に怖かった。
このパンデミックが始まる前に帰って来ていたのだが、
本当に親しい人以外には帰国したことは告げなかった。


そして、フリーランスの芸術家への給付金をめぐるバッシング。
文化を、芸術家を守ろうとしていた政治家のツイートに
「夢を追って困っているなら自己責任だ」
「他に困っているところにお金を回せ」
という趣旨のリプライがズラッと並んでいた。


僕が感じたプレッシャーはこの辺りだろうか。



「共通点がある」「すでに知っている」とき、脳は「好意的な感情」を生み出すらしく、
逆に「共通点が無い」「まだ知らない」とき、
人間はどこか慎重になったり、注意深くなるように作られているらしい。


この脳のシステムの傾向は、余裕が無ければ無いほど、強くなるのではないか?と思っている。
自分たちのグループを優先し、知らないグループを蔑ろにする。

まだそう長くない人生だけれど、いっぱい心当たりがある。
また、その事実は自分の未熟さをハッキリと目の前に突きつけてくる。




自分と同じ色だと思っていた群れの仲間、けれど似ている別の色だと認識した時点で排除の対象としてしまう。

逆に、群れの色と自分の色の差に気づいてしまったとき、どうなるのだろう。
自分の色を変える?色が変えられなかったら、必死に隠し通す?
いっそ群れから離れる?


そんなことを考えている内に、そもそも群れの中でも、全く同一の色など存在しないことに気づいたり、
色分けの追求をした結果、最後は自分以外存在しない群れを作ったりしてしまうのだろうと、
なんとなくそんな結末が頭に浮かんだ。 


色に細かく名前をつける民族だからこそ、色に敏感な民族だからこそ、自分と他者の色の違いへの折り合いの付け方を見つけられるのではないかな?と、ちょっと希望を持てる自分もいる。
その方法は、色の数だけあるのかもしれないし。




羊毛と雲の色の差を知る羊 その毛は黒で、はたまた白で

人の見方

Aさんがいたとして、

Aさんを昔から知っている人と、Aさんと最近親密になった人では、
どちらが、現在のAさんを「適切に」見れているのだろうか。


昔から知っている人は、最近親密になった人より確実に「情報量」が多い。
Aさんが、どんなときにどんな言動を取るのか、いっぱい「人柄データ」を溜め込んでいる。


しかし人は変わるもので、
貯めてきた「人柄データ」が、現在のAさんを見る上で錯覚を起こさせることは無いだろうか。


そこそこにしか評価していなかった人が成功した途端、
ある種のインパクトと共に「俺は昔からあいつが成功すると思っていた」なんて言って、
過去の「人柄データ」を上方修正する話はよく聞くし、
もちろん逆もよく聞く。


ましてやAさんの変化が誰にも気づかれないほど、本当に少しずつ起こっていたら、
最近親密になった人の方が「人柄データの変化後」を基準に見ている分けだから、
その点は「正しいデータ」を持っていると言えるかもしれない。


でも、やっぱり最近親密になった人の弱みはデータの少なさ。
もし知れば「えっ…そんな人だったの…?」と思う、
まだ知らない面が多いかもしれない。




知りすぎてもいけないし、知らなすぎてもいけない。

うーん…

難しい。


プロレスにも言えることだったりして。